月別アーカイブ: 6月, 2019

道州制ウイークリー(147)~(150)

■道州制ウイークリー(147)2019年5月4日

◆立法権と財政自主権を持った道州制へ

(塩沢由典『経済に国はいらない』より)

日本は、明治以来、中央集権でしょう。中央の官僚がいいと思ったものを、全国一律にうけわたす仕組みを作ってきた。補助金もそうです。それは無駄なく効果的だった。だけど、今は、漂流の時代。「坂の上の雲」が見えない時代でしょう。そういう時代には、別の形の思考にいかなければならない。日本では、中央集権を改めなければ上手くいかないでしょう。少なくとも、既成の解答はない。日本の国家体制を大きく変えなきゃいけない。

その一つの可能性が「道州制」です。これは、人によっては自治体の単位が小さすぎるから、もっと合併して、権限を集中させるべきだ、という文脈で使う場合も多いので、気を付けなければいけない。道州制という言葉だけでは問題があるのです。わたしが言っているのは、かなりの自由度を持った、立法権と財政自主権を持った地方政府をつくっていくという考え方です。もちろん、部分的に地方交付税みたいなものがあってもいい。ドイツだったら、州間調整というものがある。豊かな州とそうでない州のあいだで財政移転する。でも、基本は自分たちでやるということを根本に置かないと、おかしくなります。補助金に頼りだすといったことが起こる。そうなると、日本全体が衰退していきます。中心地もダメになるし、供給地域になっているところも、上手くいかない。まして、見捨てられた地域にお金をつぎ込んでも、上手くいかない。

 

 

 

 

 

■道州制ウイークリー(148)2019年5月11日

◆関西は主体性を取り戻せ

(五百旗頭真『広論関西経済』読売新聞2019年5月4日付より)

作家・司馬遼太郎はかつて、東京を「世界の変電所」と呼んだ。送られてきた電力を変圧して消費地に送る変電所のように、東京に人材や権限を集め、世界の潮流を把握して全国に成果を伝えていく。日本の近代化が成功したのは、明治以降のこの仕組みがうまく機能したからだ。

昭和の後半ぐらいまではそれで良かった。それ以降は地方の自主性、多様性を育まねばならないのに怠り、過度な東京一極集中を招いた。

令和の時代に、関西は主体性を取り戻さなければならない。政府頼みでは駄目で、企業や自治体が根を張り、我々こそが日本と世界を動かすという気概を持つ必要がある。「東京にはないものが、自分たちでできる」と発信し、人を集めていくほかはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■道州制ウイークリー(149)2019年5月18日

◆第二の「極」へ個性磨こう

(五百旗頭真『広論関西経済』読売新聞2019年5月4日付より)

首都直下地震が憂慮される今、日本は複数の軸足を持たねばならない。もう一つの「極」になれるのは今、関西しかない。最終的には5~10の個性ある中心都市と地域を育てるべきだが、まずは二つ目の軸を作らなければ始まらない。関西が突破口を開く必要がある。

兵庫県は、日本の安全神話を覆した阪神大震災という未曽有の災害に見舞われた。それ以降、単に復旧させるのではなく、より良い地域を作る「創造的復興」の歩みを進めてきた。震災前は鉄鋼など重厚長大型の産業が中心だったが、今は科学技術立県を目指している。

関西の各府県も兵庫と同様に、独自の強みがある。大阪が商業・産業の集積地であるのは言うまでもない。京都は文化・観光の全国的中心地であるだけでなく、電子部品などハイテク産業や医療研究の先進地でもある。環境保護の取り組みでは琵琶湖を抱える滋賀が進んでおり、奈良は京都とともに伝統ある文化・観光の拠点である。

人間存在の本質は、「多にして一」だと思う。どんな人間も内面は複雑で多様性を持つが、一人の人間として統合されている。これは、地域も同じだ。

各府県の得意芸、個性が集まって「一」になる。関西のまとまりの悪さを『関西は一つ』ではなく、『一つ一つ』と揶揄する言い方があるが、「多」と「一」は両立しうる。それぞれの個性を磨き、多様性のある関西が全体として輝きを増せばいい。「多」の一つ一つの水準を高め、相互に連携を深めていく。これが関西発展の道だと思う。

 

 

 

 

■道州制ウイークリー(150)2019年5月25日

◆大前研一「わが道州制案」①

(大前研一『世界の潮流2019―20』より)

平成は日本にとって失われた30年だった。新元号、令和の時代に日本がやるべきことは、その失われた30年を取り戻す、これしかない。

しかし、すでに半ば機能不全に陥っている国にその力はないだろう。だから、道州制なのだ。

日本を北海道、東北、関東、首都圏、中部、北陸、関西、中国、四国、九州、沖縄の11の道州に分割し、憲法を改正してそれぞれに自治権を与える。各道州は知恵を絞って世界からヒト、モノ、カネ、情報を呼び込み、各道州の首都は発展を競い合う。

1人当たりGDPと人口規模を繁栄の単位とすると、首都圏はカナダと同じである。関西は台湾とほぼ同じで、オランダよりも人口が多い。九州はベルギーに匹敵する。四国はニュージーランドと同等。このように日本を道州に分けた場合、ほとんどの道州は国家と肩を並べられるくらいの経済力があることが分かる。

 

道州制ウイークリー(143)~(146)

■道州制ウイークリー(143)2019年4月6日

◆ヨーロッパの道州制①

(神野直彦『人間国家への改革』より)

地方分権を推進しようとすれば、地方自治体の任務が拡大する。そうなると、任務の受け皿として統治機構を改革しようとする動きが胎動する。ヨーロッパでは、国民国家の機能を上方と下方に分岐させようという動きによって、下方に移譲された機能を受け皿として、道州制を導入しようとする動きが生じてくる。具体的には、フランスのレジオン、イタリアのレジョーネ、スウェーデンのレギオンなどの道州制の潮流である。

国民国家の機能としての産業政策が、EUという超国民国家へと上方に移譲されると、EU内部の地域間格差是正のために、構造資金を設けるようになる。この構造資金の受け皿として、道州制の導入が意図される。そのため、ヨーロッパの道州制の重要な任務は地域経済振興にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

■道州制ウイークリー(144)2019年4月13日

◆ヨーロッパの道州制②

(神野直彦『人間国家への改革』より)

フランスでは、レジオンという国の行政区画を1982年の地方分権化法で地方自治体とし、職業訓練を中心に地域経済振興を担うことを任務としている。イタリアのレジョーネをみると、EU構造資金の受け皿であるとともに、医療の担い手ともなっている。イタリアは日本と同様に小域別に医療保険が分立していたが、1978年の国民サービス法で職域別の保険を一本化し、レジョーネを医療サービスの提供主体としたのである。

スウェーデンでも90年代後半からEU構造資金の受け皿として、レギオンという道州制導入の動きが始まる。スウェーデンでは広域自治体としてランスティングが存在している。このランスティングの任務は、医療サービスの提供に絞られているといってよい。このランスティングと重ね書きするように、同じ区画でレーンという国の行政区画が存在する。レーンには地域経済振興を担う国の出先機関が存在する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■道州制ウイークリー(145)2019年4月20日

◆ヨーロッパの道州制③

(神野直彦『人間国家への改革』より)

スウェーデンでは、20あるランスティングを廃止して、6から9のレギオンに再組成するとともに、レーンの地域経済振興にかかわる権限もレギオンへ移すことを構想する。つまり、レギオンは医療と地域経済振興を担うことを任務として構想されたのである。

そのため、1997年からスウェーデンでは、手を挙げた地方自治体によるパイロット的なレギオン実験が行われた。しかし、道州制を推進してきた社会民主党から、消極的な中道右派へと政権が後退したため、レギオンへの移行は強制されず、現在ではレギオンとランスティングという二つの広域自治体が併存する事態となっている。

こうしてみていくと、ヨーロッパの道州制は、EUという超国民国家の形成と結びつき、地域経済振興と医療という役割を車の両輪として、いずれか一方あるいは両方を担わせることを目的に導入されていることが分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■道州制ウイークリー(146)2019年4月27日

◆日本の道州制への課題

(神野直彦『人間国家への改革』より)

日本でも道州制の導入が議論されているけれども、その目的は判然としない。強いて言えば、道府県という広域自治体の規模を大きくして行政コストを縮小することが目的のようである。しかし、公共サービスで「規模の利益」が動くと仮定しても、広域自治体をさらに大きくすれば、国民から「遠い」政府となり、ニーズに応じた公共サービスを提供する有効性は低下してしまう。職業別に分立している日本の医療保険を一本化する改革と結びつけるなどして、道州制がどのように国民の生活を向上させていくかを的確にしない限り、意味のある構想とは思えない。