道州制ウイークリー(285)~(289)
《道州制》関西州ねっとわーくの会
■道州制ウイークリー(285)2022年1月1日
◆地方自治を変え国を一新⑥
(大前健一『君は憲法第8章を読んだか』より)
日本では、今でも田中角栄的な「国土の均衡ある発展」というコンセプトが根付いている。中央で集めた金を地方に再配分する地方交付税がその象徴だ。ところが、東京と鹿児島の1人あたりGDPを比べると、2倍以上の開きがある。沖縄はもっと低くなる。つまり、中央集権で「国土の均衡ある発展」をやろうとすると、与えられる方は与えられることを当然と思い、自助努力の妨げになっているのだ。
一方、ドイツでは、基本法で中央から地方への援助を禁止している。それぞれの州が立法権から徴税権まで持っているからだ。さらに、国からの援助のみならず、豊かな州から貧しい州への援助も上限が厳しく決められている。これがドイツにとって、「国土の均衡ある発展」に非常にプラスになった。なぜか? 誰も助けてくれないので、自助努力を重ねるしかないからである。その結果、企業や施設の誘致なで競争が起こり、長期的にみると非常に均衡ある発展につながったのだ。
日本人が大きく勘違いしているのは、これを中央指導で行った方が効率がいいだろうと考えている点だ。だが、それは途上国だけに通用する考え方である。ある段階から先は、地方それぞれの自立を促し、世界から「カネ・人・企業」を呼び込むように仕向ける。そうやって地方に権限を渡している国の方が豊かになるのである。
《道州制》関西州ねっとわーくの会
■道州制ウイークリー(286)2022年1月8日
◆地方自治を変え国を一新⑦
(大前健一『君は憲法第8章を読んだか』より)
中央集権型の硬直化した政府では、新たな産業を興し、これまでの旧態依然とした社会を変革することは期待できない。道州制を導入し地方ごとに三権を有する真の意味での地方自治を実現すことで自立する道を模索していく必要がある。その前に大きな壁が立ちはだかっているのが、地方自治について定めた「憲法第8章」なのである。
現行の日本国憲法は、終戦直後に進駐軍が慌てて作っていったお粗末なものである(原文は英語)。最高司令官マッカーサーの指揮の下、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)民生局――つまり、日本という国を知らない人たちが書いた憲法だから、前のほうだけに力が入っている。前文や、明治憲法で絶対君主とされた天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とする第1章、「戦争放棄」の第2章に比べると、それ以降の文章はまったく気合が入っていないのだ。
大前版憲法改正草案の地方自治の項では、国家を形成する社会単位を「コミュニティ」としている。コミュニティは、人間生活に必要な基本財が満たされること、健康で安全な生活が営まれることが必要であるとし、道州はコミュニティの集合体とされ、産業基盤育成の単位とされる。財源は個人からの消費税、法人からの法人税及び固定資産税によって賄われる。日本の県は規模が中途半端で今のままでは地方分権が進まない。分権化に足る規模の道州を新設するとしている。
《道州制》関西州ねっとわーくの会
■道州制ウイークリー(287)2022年1月15日
◆「道州制」なぜ実現しないのか
(高橋洋一『日本国民のための政治学入門』より)
地方分権は今より進んだ方がいい。そんな考えのもと「道州制」が言われるようになって久しい。現在の日本の行政区分は都道府県だ.まず日本国があり、それが47都道府県に分かれている。しかし、国のすぐ下の単位が都道府県というのは細かすぎる。そこで都道府県より広い、中ぐらいの行政区分である「道」や「州」を新たに設けようというのが道州制である。道州には、現在の都道府県が持っている権限より強い権限を与える。そうすることで地方自治体の自立性を高め、「ニア・イズ・ベター」の地方分権の原則をより強く機能させてはどうか、というわけだ。この道州制は根強く訴えられており、多くの人が賛同している。それにもかかわらず実現していない。
足かせの1つとなっているのは、実は憲法だ。「地方のことは地方で」を「地方のルールは地方が決める」と捉えると、地方の条例制定権を自立させた方がいい。それには、憲法第94条の改正が必要だ。憲法94条では、「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、および行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」とされているが、あくまで「法律の範囲内」でしかできないのだ。各地方がその条例により、国が決めた法律の上書きをできるようにすることができれば、地方の自由度は格段に増すはずだ。そこで障害になったのが、憲法94条だ。国の法律の範囲内でしか条例を作れないので、条例による国の法律の上書きは憲法を改正しないと無理なのだ。
ただ、中には道州制によって「今ある立場や権限」を損なわれたくない人々がいる。都道府県の知事の立場にある人たちでらる。道州制が導入されたら、道州の長が設けられ、都道府県知事の立場は道州長の下になる。「県知事」から「地区長」へ格下げされることになる。ただし、人情としては理解できても、正しいと言えるのかどうか。
《道州制》関西州ねっとわーくの会
■道州制ウイークリー(288)2022年1月22日
◆地方分権で地域格差が広がる?
(高橋洋一『日本国民のための政治学入門』より)
地方分権を進めるためには、現在の税制にもメスを入れる必要がある。より強く「地方のことは地方で」を機能させるには、地方財政の権限を広げなくてはいけないからだ。「地方のことは地方でやる」とは、すなわち「地方のことは地方のカネでやる」ということでもあるのだ。現在の税制はどうなっているかというと、一言でいえば「上納金分配システム」だ。簡単に説明すると、国民が納めた税金は、いったん国に納められる。そして「地方交付税」として、国から地方へと分配される。つまり地方の財政はほぼ国が握っているのだ。
「地方自治体の財政の不均衡を調整すること」、つまり「金持ち地域と貧乏地域の格差を生まないようにすること」が、地方交付税の大義名分だ。しかし、そもそも、国が地方に税金を「上納」させるというシステムがなければ、赤字になることもない自治体は多いはずだ。本来はストレートに地方の財源に入るべき税金が、いったん国に吸い上げられる。現行の「上納金分配システム」では、上納金を納めることで赤字になる自治体は、地方交付税をありがたく,おしいただくしかない。地方財政を国の方でコントロールしようという「親分・子分」的な税制が、地方分権の大きな足かせになっているのだ。
地方自治体の財源の不均衡を調整する地方交付税がなくなったら、地域の経済格差が生まれ、極端に貧しい地方自治お体が生じるのではないか、確かに一部の地域ではそういうことも起こってくるだろう。とはいえ、そもそも地方自治体とは単なる「地域の区切り」だ。その間で生じる経済格差を問題にすること自体に、実はあまり意味がない。経済成長を続け、失業率を最低限に抑える。そのために必要な、かつ適切な経済政策を行う。こうして国民一人ひとりが、あまねく文化的で豊かな生活ができるようになっていけばよい。そこで「地域間格差」を問う必要などないのだ。本当に問題にすべきは個人間の所得格差だ。
《道州制》関西州ねっとわーくの会
■道州制ウイークリー(289)2022年1月29日
◆コロナ禍で考える地方分権の是非
(高橋洋一『日本国民のための政治学入門』より)
2020年に世界的流行となった、新型コロナウイルも地方分権を「わがこと」として考える格好の材料である。ひとたび新型ウイルスが国内に入ってしまったら、感染状況は、いわば各地方自治体の足元の問題だ。自治体によって人口も違えば人の流れも違い、したがって感染状況は自治体ごとに異なる。こういう場合は、地方自治体の首長の判断で対策を打つのが最も効果的だ。感染拡大の抑え込みは時間との勝負でもある。地域の状況を最もよく把握している人が独自の判断で、適時、瞬発的に対策を打つこととが望ましい。
現に欧米の国々を見ても、国家元首の役割は補償金の財源を準備したり、国民に向けて警戒を呼び掛けたりすることだ。地方自治体に相応の権限があり、ロックダウンなどの対策は、各都市が独自の判断で行っている。それが日本では、いちいち地方自治体から国に要請しなくてはいけない。その手間と手続きの手間が無駄なのだ。
また、補償金の問題も地方分権の話と結びついている。ほとんどの自治体には補償金の財源がないから、休業要請を出したくても出せない。そこで政府は「新型コロナウイルス感染症対応地方創生臨時交付金」という制度を設け、地方自治体に「住民に補償金を出すための補助金」を出すようにした。しかし、そもそも地方自治が国に税金を「上納」するというシステムになっていなければ、補助金の財源も、ある程度は地方独自に確保されていたはずだ。つまり、地方分権が進んでいないために、「住民に補償金を出すための補助金」を出す制度を新たに設ける、などという面倒な措置が必要になってしまったわけである。
さらに、地域の医療が逼迫している。医療の逼迫度合いは、都道府県によってまちまちだ。県をまたいだ患者の地域間搬送波なかなかできない。もし道州制ができて入れば、医療の広域行政は県ではなく、道州単位にするだけで、医療の逼迫はもっと抑えられる。地方分権は、私たちの生活、健康や生命にもかかわる大きな問題なのである。